第8回「麻痺した怒りを感じるために」
いつものように、器塾で影宮先生とお話しをしていた時のことでした。
「たね子くんは、一度”怒り”を思い出す必要があるね」 と、影宮先生が言うわけです。
この”怒り”は、いったい誰に向けての怒りなのか?
どういう事に対しての怒りなのか?
怒るようなことって何があるっけ?
だいたい私、”怒り”を感じているかしら???
いつものように、???の連続になってしばらく固まってしまい、その後、”怒りを思い出す”ことが頭にこびり付いたまま数日間を過しました。
それから、日常で起こるいろいろな出来事…を通して湧いてくる自分の感情の発生源が気になりました。
もし、この湧いてくる感情、不満や怒りが収まるように行動したとしたら、自分は誰とも関わらず、社会からはぐれて完璧な引きこもりになってしまうだろう。
それで気持ちは一時的に収まるかもしれないけれど、心の不具合さを解消できるとは思えない。
部屋の隅で息を潜めて暮らすような人生、送りたいと思えない。
私は、何に怒っているのか。
それをちゃんと知らなければ。
そして、心に浮かんでくる言葉を、ノートに書き連ねていきました。
人に迷惑をかけることの多い自分は居ない方が、きっと丸く収まる。
何かできる人は、とっくに何かしら形にしている。
自分は、誇大すぎる不相応な夢にしがみついているだけ…
ノートには諦めの言葉ばかり。
他人に対する感情、ノートに書き連ねた言葉をよく見てみると、私が親に対して抱いていた感情、親に言われてきた言葉ばかりでした。
親に言い負けてきた悔しさを、他者に投影して勝手に腹を立てている。
負けてきた悔しさを、払拭するしかない。
何かにチャレンジするのをいつから怖気づくようになったのか。
絶対最後は達成させてやる!と一生懸命になったことはあっただろうか?
腹を立てることや、意地を出すことは、恥ずかしいことだと教えられてきた。
なんとなく納得できないまま、私はそれを受け入れたまま、自分で考えることもせず、大人の年齢になってしまっていた。
残ったのは、臆病で殻に籠った自分。
否定的で、弱気で、獲られても怒らないどころか差し出す自分。
挙句の果てには、人生に行き詰っている。
自分で自分の動かし方が分からない。
最終的にこんな人生に作り上げてしまったのは、全部気の弱い自分。
自分で自分の首を絞め、チャンスを手放してきたのは、弱気の自分。
親に負けてしまった自分に、腹が立ち、怒りが湧いてきた。
悔しくて、涙が出そうで、もし部屋に一人きりだったらきっと思い切り嗚咽していた。
殻に籠るなんて、なんとつまらないことなのか。
親に一人で生きられるという証明をすることに怖気づいて負けて、つまづいて、いかにつまらない時間を過してきたか。
なんと時間を無駄遣いしたか。
「ただ、負けない気持ちで生きればよかったのに、なんてつまらないことに時間を費やしたか。 生きるのが嫌になりそうです」
またしても、弱気ないじけ虫発言をしてしまった私に、影宮先生がこんなことを話してくれました。
「そんなことはないよ。気付いたら、誰だってそうだから。 私は、『つまらないことで悩んでいたことが分かったけれども、もしこうして悩むことさえ無かったら、気付くことも知ることもできなかった世界がある。 悩んだから、本気で”自分の棘を抜いて”生き直す勉強をする道を見つけられた』ということに感謝しているよ。」
生きるのが恥ずかしい、消えてしまいたい気持ちになった私は、その言葉の温かさに涙がこぼれてしまいました。