第6回「空っぽな恐怖」
私なりに、過去の生い立ちや親に対する不満を振り返り、 ”自ら自分自身を抑えている”事実に気付きました。
そしてさらに、ある程度不満を吐き出していくともうひとつ気付いてしまいました。
それは、自分の中から、親の影響、刷り込み、根付いてしまった反射的な行動をどんどん引いて残ったのは、”いかに自分は空っぽか”という事実でした。
それは、通話機能やアプリや一切の機能が搭載されていない空っぽのスマートフォンのような感じ。
『いったい、私はなんなんだろうか』という葛藤が始まり、 『私は本当にそう思っているのだろうか』 『今のこの考えは、本当に自分の考えで浮かんだことだろうか』 と、自分の反射的な感情や意思すべてに懐疑的になりました。
昔、
「あなたの話しから、あなた自身の意志がよく見えない」
「本当はこうしたいという意志が見え隠れするのになぜ素直に表現しないんだ」
「今の話は誰の意思で言っているの?」
など、人に言われたことがあり、当の本人である私はぽかんとしているおかしな状況でした。
ある話から、そうだと自分も思うから話しているだけなのに、なぜ第三者から操作されて私がしゃべっているかのような指摘を受けるのだろうと不思議に思いながら、彼らの言葉に『いったい、どういうことなのだろう。どこか私がおかしいのかも』という不安を覚えました。
すると、だんだんと、そういえば…と、さっきから自分の口を突いて出る言葉が他人からの借り物のように感じられ、怖くなりました。
これは結局、自分にフィットする他者の言葉を引用することで責任逃れしている。自分の意見を出すこと=責任を取ることからの逃げに過ぎない、こすずるい行動だという考えに行き着きました。
他者の話を噛み砕いて、消化して、自分の心は何を感じたか、丁寧に自分に向き合うことを怠ってきたのです。
意志薄弱は、自分が自分でそう仕向けてしまった。
修正することをせず、負けない心を持つことを捨てた。
生き直したいから、まず自分の情けない部分を受け入れようと決めました。